仕事の棚卸し中
一般的に60歳を超えると、定年退職と言って、仕事の最前線から引退するのが何となく決まりであった。
しかし、人生100年時代と言われるようになり、60歳で引退はせず、65歳まで延長している会社が多い。
もっと早期にリタイヤしたいと思って、仕事をして見るものの、現実はそう甘くはなかった。
間もなく、65歳になるが、日々、生活するために追われている。
老後のために家を購入した結果ではあるが、予定した収入を得ることがコロナショックによって激変したからである。
ファッションビジネスを生業としている関係上、マーケットの状況はダイレクトに響く。
必然的に、自分の仕事を振り返る事になります。
「いったい、何をしてきたのだろうか?」と
自分を振り返って見ることにします。
備忘録的なので、他の記事をご覧ください。
時代を知る
アパレル業界に入ってから、40年を越えて振り返ると、多岐に渡り仕事をしてきたので、行動範囲が広く、説明ができませんでした。
今でこそ、クリエイティブディレクターという役職を聞くようになったが、自分が若いときには未だ未だありませんでした。
バブル以降に誕生した職種だと認識しています。
主に、広告業界で使われていた職種が、ファッション業界の近代化とビジネス化に伴い新たな仕事(業種)が増えたことから使われたと認識しています。
少しだけ、自分の経歴に触れておきます。
我が家は父親が紙好きで、本が好きなため蔵書が多かった。
そのジャンルは多岐に渡り、古本から漫画まで広範囲でした。
特に自分はファッション雑誌が好きでした。
’70年代の情報源
雑誌は、MEN’S CLUBが定期購読本で、自然とIVYがファッションの基礎となりました。
少し遡るが、’75,’76年に発汗された、MADE in U.S.A.とMADE in U.S.A.2いうムック本は衝撃的だった。
毎日毎日、読みあさっては「同じ物はどこで買えるのだろうか?」と近場を探している時、
POPEYEが創刊され、どっぷりハマった。
一字一句見逃すまいと完読していました。2回は読んでいました。
そして、掲載されていた店舗はできるだけ、見にいきました。
雑誌以外には昼の帯番組、「おしゃれ」であった。
浪人中、昼食を取りながら、何となく見ていたのがきっかけで、スポンサーが資生堂で宣伝部に入ることが当時の目標でした。
しかし、そんなに上手くいくわけではなく、大学受験に失敗したことから、広告業界はあきらめ、洋服の世界へ入ろうと進路を専門学校にしました。
流行通信に広告を載せていた学校であった。
’80年代の情報源
POPEYE は毎号欠かさず読破していた。
後に創刊されてたBRUTUSに始まるマガジンハウス黄金期4誌(OLIVE,Tarzan)全て購読していた
女性誌としては、an an ,JJ(ジェイジェイ) 特に JJの勢いは凄かったのを覚えている。
ファッションの流行が、男性がPOPEYEで女性がJJという時代で、後に赤文字雑誌として、女性誌ではあらたなブームを作ったのである。
流行通信、花椿から広告のトレンドを予測しながら、海外雑誌も不定期で購入していた。
GQ(アメリカ版)Vouge EllE 他
セレクトショップに就職してからはMONDE UOMOといったUOMO VOGUEといった
イタリアの雑誌を見るようになりました。
垢抜けた華やかなスタイルはとても新鮮でした。
今思えば、この時がバブル時代の始まりでした。
当時は雑誌が最先端の情報収集場所でした。
’90年代の情報源
バブル期には、「本当に忙しかった」という思い出でした。
ほとんど休みが少ない中、一生懸命働いては、服を買い、遊びに行く時代でした。
忙しい分、収入も増え、好きな服を買うことができ、ヨーロッパから高品質の商品がとれんどとなりました。
高級ブランドが流行ったのがこの時代です。
特に、そのデザインやカラーに特徴があるフランス物中心から、新しいトレンドがイタリアに移り、
老舗のブランドがどんどん新しくなっていた黄金時代です。
それまもフランス物やイタリア物が中心でしたが、一部の人達しか知らない隠れたものでした。
アメリカ物が中心で若者を中心とした服がファッションの中心でしたが、ヨーローパ物は少し、背伸びをした大人の世界を感じる服が多かったです。
「エレガント」という言葉がぴったりとはまるファッションでした。
就職後、安定した収入を得る事ができたので、雑誌情報に加えて、実際の商品(洋服)を研究することで商品の良さを見極める目を養いました。
この時代の多くの経験が自分にとっての大きな財産になりました。
自分は役に立っているのか?
バブル崩壊後、仕事量は少し減りましたが、自己投資をした分、仕事の質は大きく向上していました。
あるとき「自分は社会に役立ってきたのか?」という疑問が急に湧いてきました。
ファッション専門学校を卒業して、「好きなことで仕事がしたい」という気持ちが強くなり、アパレル系小売業界へ進んみました。
デザイナー志望で入学しましたが、ゼロから造り出すデザイナーには自分は向いていないとすぐに気付き、MD(マーチャンダイザー)になろうと、方向転換し、自力で勉強しました。
と言っても、関連書籍を読みあさっていただけでしたが、大人とは十分会話ができ、会話からも勉強になりました。
そして、MDとVMD(ヴィジュアルマーチャンダイザー)という職種に就きました。
学生時代にバイトしていた職場で、先輩から小売のノウハウを色々と教えていただきました。
今では、感謝しかないです。
今、考えてみても恵まれた環境でした。
憧れの職場
学生時代に通っていた、原宿のセレクトショップに就職したくて、応募しましたが、定期応募はしていなく、2年以上待つことになります。
レディスアパレルメーカーで商品企画の基礎を学びました。
とても厳しい環境で、「自分で企画した商品は自分で売る」が基本でした。
その代わり、休みは少なく、朝早くから終電までという日が続きます。
20代でもキツくて、倒れてしまい、そのまま退職してしまいました。
3ヶ月は仕事ができず、自分を見直す機会となりました。
商品企画とマーケティング分析の能力を評価され、フリーランスとして働き出します。
マーケット需要によって仕事が変わる
多くの企業と仕事をしてきましたが、それぞれの悩みは違います。
古巣のセレクトショップからは、新規事業を立ち上げるので、契約したいと呼び戻され、アウトレットビジネスの基盤を作りました。
5店舗限定というスタートでしたが、現在は30店舗以上にもなり、基幹ビジネスとなっています。
その後、OEMを続け、スポーツアパレルの小売事業開発に参加します。
そして、新たな業務として、「Instagramを活用したVMD」という視点で、スーツ量販店様でInstagramの運用方法について、研修を担当しました。
そして、縁があり、セレクトショップの店舗運営のアドバイスを現在行っています。
海外から日本マーケットに関する問い合わせも多く、仕事が多岐にわたています。
必要とされる、役に立てるという視点からできる限り応える様にしています。
謝礼
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
内容も自分目線で理解しにくい部分もあるでしょうがご容赦ください。
引き続き、宜しくお願いいたします。
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